18 November
■いじめと自殺
いじめによる自殺が後を絶たない。残された両親や家族の気持ちを考えると子どもをもつ親として胸が締めつけられる。なぜ相談してくれなかったのか。なぜ自ら命を絶ったのか。そんないくつもの「なぜ」が頭から離れないのではないだろうか。今月6日の午前中に、いじめを苦にした自殺予告の手紙が伊吹文科相あてに届けられた。文科省は7日未明に手紙を公開し、「誰かに必ず気持ちを正確に伝えてください。学校の先生が何もしないということがあるのなら、文科省がこれだけのことをマスコミのみなさんにご協力をいただき、しているんだから、世の中は君を放っているわけじゃないことを理解してほしい」と呼びかけた。
この手紙に影響を受けて、さらに手紙を書いたり自殺をしたりする生徒が現れるかもしれないという可能性を文科省も考えたに違いない。それでも手紙を公開して、子どもたちを守ろうとしているおとながいることを示したことは、間違ったことではなかったとわたしは思う。ただ、公開する以上、手紙の差出人を捜すだけではなく、同じように苦しんでいる子どもたちのために、例えば非常事態を宣言して、特別な対策、あるいは国民的運動などを作り出すべきだったと考える。
いじめを苦にして子どもが毎日のように死んでいく現実。まさに非常事態である。予告は子どもたちの叫びである。
学校は、翌日の授業を2時間くらい特別授業に切り替え、子どもたちの気持ちを聞き、おとなの願いを伝えるべきだったのではないか。とくにいじめを確認している学校では、緊急かつ徹底した対策を講ずるべきだと思う。(群馬県では、緊急集会を開かないと自殺をするという手紙が県教育委員会に届いたので、各中学では全校生徒を集めて集会を開いているが、わずか10分ほどですませている学校もある)
また、マスコミ報道にも特別の配慮が必要だったとわたしは考えている。事実の報道より自殺を思いとどまってほしいという呼びかけや、いじめをなくす努力が行われていることなどを優先して子どもたちに伝えるべきだったと思う。
京都では、全市の小中高、総合養護学校の児童生徒400人が集まり、「いじめに立ち向かう 全市立学校277校生徒会議アピール」を採択して「いじめからは何も生まれない! 〜するな、させるな、みのがすな!〜」という訴えを行った。子どもたち自身が行動を起こした貴重な実践だと思うのだが、それを報道したマスコミはわずかだった。(15日ころより報道姿勢に変化が見られるので、状況の好転を期待したい。16日、朝日新聞は自殺報道のあり方についての記事を掲載した)
ところで、わたしの教室に通っている中1生も以前からいじめを受けている。そのため、教室に来たときは話を聞き、精神的に支えられるよう努めてきた。最近、またいじめがエスカレートしてきたので、ご両親が学校と話し合いを重ねている。生徒たちの話を総合すると、どうも学校の先生の認識は甘く、積極的に指導しているようには思えない。また、解決能力にも問題がありそうである。
わたしの教室では、文科省の手紙公開を受けて、その日(7日)にいじめを考える特別授業を行った。生徒たちの感想を読むと、参加した中1から中3までの10名のうち7名は、いじめられたことがあると答えた。また、そのうち2名はいじめたこともあると答えており、いじめられていた子が、次はいじめ側に回ること、あるいはその反対も珍しくないことがわかる。つまり、どの子どもも、いつ自分がいじめの標的になるかわからないという不安な状態にいるのではないだろうか。
京都大の木原雅子助教授と全国高等学校PTA連合会が実施した「全国高校生の生活・意識調査」(今年9月実施。全国の公立高校生、約6400人が回答)によると、「する側とされる側の双方に関与した割合は、男女とも小学生時代では全体(精神的いじめの体験者……筆者注)の50%、中学生時代では男子45%、女子35%、高校生時代でも男子30%、女子15%強」であり、「木原助教授は『必ずしも弱い立場の子供がいるわけではない。どちらの側になるかは状況的なのでは』と分析している。」(時事通信11月14日)
子どもの相談を受け付ける「チャイルドライン」のフリーダイヤルには、手紙公開前日からの1週間で27,622件の電話があったそうだ。すべてが子どもからで、かついじめの相談とは限らないが、いかに悩んでいる子どもたちが多いかは想像に難くない。
各学校、各教育委員会の報告をもとに作成した文部科学省の統計では、1999年以降、いじめによる自殺は「ゼロ」ということになっている。しかし、警察庁発表の「平成17年中における自殺の概要資料」によると、未成年者の自殺者数は608人、そのうち小中高校生の数は、288人と約半数に迫る。(小学生7人、中学生66人、高校生215人)いじめ以外の原因も考えられるが、学校や教育委員会の体質が見えてこないだろうか。
さて、後半はいじめを考える授業で子どもたちに伝えたかったことをまとめておきたい。
1)たとえどんなに嫌いな人、問題のある人でもいじめてはいけない。人をいじめていい理由などひとつも存在しない。
気の弱い人、動作の遅い人、勉強のできすぎる人、上品な人、人それぞれです。自分と違うところがあると気になって、やがて気に入らなくなって意地悪をしたりいじめたりするのでしょうが、それは許されません。かりにその人がみんなに迷惑をかけるとか、問題をもっているとかで嫌われているのであれば、いじめるのではなく、その理由(わけ)や原因を話し合って解決すべきでしょう。
小学校高学年から中学生になると、とくに女子は仲良しグループを作って行動しますが、ここで、グループ内の「仲良し」とグループ外の「気に入らない子」という2つに分ける思考に落ち入りがちです。ここから、「仲間はずれ」や「無視」といういじめが始まります。
おとなのことを話しましょう。親しくしている人と、知らない人の間に、「知っているけど親しくない人」という存在がおとなにはあります。例えば近所の人です。知っているけど親しくないから挨拶をする程度です。親しくないからといっていじめません。
小学校のとき、「みんな仲良し、クラスのみんなと仲良くしましょう」と先生から言われたことはありませんか。実は、そんなことは無理だとわたしは思います。どうしても好きになれない人、どちらかというと嫌いかなと思う人もクラスにはいるでしょう。それが当たり前です。そういう人は、「知っているけど親しくない人」と考え、普通に挨拶する程度のおつき合いをすればいいと思いませんか。
もし、自分のグループでない子をいじめないと自分のグループにいられないほど状況が悪化したら、「ある決意」が必要になるかもしれません。それは、自分のグループにボスがいて、もはや仲良しグループとは言えない状態かもしれません。グループには本当に仲のいい友だちがいたはずですから、状況を変えるために話し合うか、グループを解体するか、勇気がいるけどあなたがグループから抜けるか……。
いずれにしても、人をいじめていい理由はなにひとつありません。いじめられている人はなにひとつ悪くありません。もし問題があれば、(問題のない人などきっといませんから)だれでもひとつひとつ解決する努力をすればいいのではありませんか。
石原都知事は10日の定例会見で次のように話したそうです。「私なんか、子どもにけんかの仕方を教えた。非常に効果があって、たちまち相手を倒したら小学校で番長になっちゃった」「自分で戦ったらいい。ファイティングスピリットがなければ、一生どこへ行ってもいじめられるのではないか」
自分の体験でしか話せないおとな、いじめに関していまだにこのような考えをもっているおとながいることが悲しいですね。ましてや発言主が東京都知事なのですから恐ろしい。
いじめはどこにでもあるのだから、社会にでればだれでも経験するのだから……、だから、どうしなさいと子どもたちに言うのでしょうか。がまんしろですか。強くなれですか。それでは、強くなれない子は死になさいということですか。
この石原発言を聞いた「都立高校2年」という人から「一生どこへ行ってもいじめられるのはつらいので『死にます』」というはがきが東京都教育庁に14日届きました。(毎日新聞11月14日)
2)どんなことがいじめなのかを知ろう。
プロレスごっこをしてふざけているように見えるのに、実はいじめだったということがあります。同じ言葉を言ったのに冗談としか受け取らない人もいれば、とても傷つく人もいます。冗談やふざけといじめはどこが違うのでしょうか。
わたしは2つのポイントがあると思います。同じことをしても、同じことを言っても、そこに「悪意」があったかどうかということ、もうひとつは、相手がどんな「気持ち」になったかということ、それが大事だと思います。相手がいやだと言っているのに何度もくり返して行うふざけや冗談は、相手の気持ちを考えていないのでいじめでしょう。度の過ぎたふざけで「悪意」が感じられたら、それは悪質ないじめです。
子どもたちが言う「省く」という行為、つまりクラス全体、学年全体で無視することは、その子を徹底的に追いつめる点で、もっとも「悪意」を感じます。「いじめてなんかいない。なにもしていない」というようないいわけは通用しません。無視されることが、どんなに辛いことか、だれでも知っていると思います。
でも、こんなことを言ったら相手は傷つくのではと必要以上に神経質になることはありません。あるいは、この言葉はいじめの言葉と決めつけて「言葉狩り」を行うのもどうでしょうか。問題は、相手がどう感じるかですから、もし本当に傷つけてしまったら、心から謝ることで解決すればいいと思います。だれも傷つけないで生きることなど、とてもできないことです。傷つけたら謝り、許し合い、お互いが少しずつ成長する、それでこそ本当の友だちと言えるのではないですか。
3)想像力を発揮して、思いやりを育もう。
想像力は人間だけが持つ能力です。人の気持ちや痛みを想像することが、相手への思いやりの出発点です。もちろん、人の気持ちや痛みを完全に理解することはできないでしょうが、何らかの共感は可能です。そして、その努力は空しいものではありません。
人はひとりで生まれて、ひとりで死んでいきますが、生きているときもずっとひとりだと思います。だから少しでもわかってくれる友を探し続けるのではないでしょうか。そんな友がいないと知っていてもです。
4)出口はいくらでもある。
絶対死んではいけません。試しに死んでみる、なんていうことはできないのです。あなたの抱えている苦しさを分かってくれる人が必ずいます。問題を解決する方法はいくらでもあります。問題が解決する日が、きっと来ます。
学校に行かないのもひとつの方法です。学校に行かなくても人生は開けます。転校する道もあるかもしれません。とにかくひとりで悩まないで、おとなに気持ちを話しましょう。あなたを大切に思っているおとなが必ずいます。
出口はいくらでもあります。絶対死んではいけません。
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20 October
■感性の教育
世の中の問題はさまざまである。真偽を問わなければならないものもあるが、一方でそういう議論になじまないものもある。ベートーヴェンとモーツアルトのどちらがすばらしいかを話し合っても、楽しいかもしれないが結論はでない。突き詰めて言えば、好き嫌いの問題、価値観の問題だからだ。
何が美しいかも価値の問題である。わたしにとって、ショパンのメロディーは、ときに涙が出るほど美しいと思うし、数学の論理的な解法にはわくわくするほどの美しさを感じる。しかし、それはわたしの個人的な感じ方であり、他人と違って当たり前である。
何をもって美しいと感じるかは、感性の問題、価値観の問題だから決して人に押しつけてはいけない。自分の価値、自国の価値を押しつけることが、さまざまな問題の原因となってきたことは、自己の経験と歴史を振り返れば明瞭だろう。それは、民族対立や宗教対立の問題においてもしかりである。
ところで、美しいと感じるのは人の心であるが、その心を育てる教育、感性の教育が、学校の中で疎かになってはいないだろうか。心の教育が、道徳教育に偏っていないだろうか。
先日聞いた話。進学高校で、成績優秀な生徒が美大や音大を希望すると担任から嫌われるそうである。そういえば、昨年、不登校の問題で相談を受けた高校生も美大希望で、どうもそのことが関連していたようである。成績優秀な生徒には、医学部などを受験して進学実績を作ってもらいたいということらしい。
頭脳に断片的な知識を埋め込む教育ではなく、五感をバランスよく育てる教育こそ人間を全面的に発達させる。見ること、聞くこと、触れること、そして味わうことで感性を育て、自然や文化に敏感になってほしいと思う。
わたしの教室には、廊下や階段などにいくつもの絵や写真が飾ってある。ときどきその位置を変更したり数を増やしたりするのだが、ほとんどの生徒は気がつかない。また、教室の前にある木々の葉の成長にも無関心である。だが、関心を持てと押しつけてもどうにもならない。だから、自ら関心を広げ、いろいろなことにもっと敏感になるような子どもをつくる感性の教育が必要なのではないかと思う。
そこで提案したい。五感で感じる経験、五感を使う習慣づくりを授業や学校生活の中にもっと取り入れてはどうだろうか。その際とくに大事なことは、「本物」と日常的に触れあう機会を豊富に創り出すこと、想像と創造を生徒も教師も楽しむこと、である。
例えば、毎月二人くらいの音楽家を学校に呼んで演奏してもらうというのはいかが。セミプロや卒業生を探せば不可能ではないだろう。1年に一度の移動音楽教室でオーケストラ体験をするよりもいいのではないだろうか。
街の美術館から毎週1点の作品を借り受け学校に展示する。そして、週1回、学芸員に解説をしてもらう。それだけでも絵画に対する生徒の関心は大きく広がるだろう。
また、こんな授業はどうだろうか。校庭にある大きな木でもいいし、地面でもいい、何か自然のものに耳を30分あて、どんな音がするか聞き続ける。木が何か話していないか、地面が叫んでいないか、感じる授業である。子どもたちは、きっと想像力を発揮するだろう。許されれば、森の中で風の音を聞き続けてもよい。
言うまでもないことだが、感性の教育では評価をしないことが絶対条件である。基礎的な技能については評価できる場合もあるが、心の中の想像や感じ方を評価することは不可能であり、まったく意味を成さない。
心を育てる感性の教育、美しいものを感じる授業、評価をしないシステム、違う価値観を認め合う学校、それらは学校に新たな魅力をもたらし、「教育の再生」につながるのではないだろうか。ただし、心の自由、教育の自由が保障されなければ、何一つ実現できないことは自明である。
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21 September
■天使に「ありがとう」
先日、BS放送で山崎ハコのライブを観た。彼女の歌を聴くのは久しぶりで、半分くらいは初めて聴く曲だった。若いかたは山崎ハコをご存じないかもしれないが、70年代から80年代にかけて活躍したフォークシンガーで、その独特の歌い方、雰囲気から熱狂的なファンがいたようである。90年代以降もライブ活動を続け、多くのCDをリリースしている。
ところで、突然だが皆さんに変わった質問をしてみたい。もし、ある一日を見ることができるとしたら、あなたはどんな日を見てみたいと思うだろうか。過去のすでに経験した一日でもいいし、未来のある一日でもかまわない。
わたしなら、わたしの死ぬ日か、いや死んだ翌日もいいかもしれないなどと思ったのだが、山崎ハコは自分が生まれた日だそうだ。彼女は、そのことを歌にしていた。「私(わたし)が生まれた日」(作詞・作曲:山崎ハコ、1995年)。聞き取った詩を書いてみよう。
生まれたその日は
どんな花が咲いていたの
私のまわりに誰がいたの
どんな風が吹いて どんな鳥が鳴いた
どんな朝を迎えたの 喜びの「雨あらし」
男と女が出会って ときめいて
私のルーツは愛よ そうよね
生まれたそのとき
どんな涙を流したの
誰かのその頬をぬらす天使たち
もしもできるならば 母を抱きしめたい
どんな時が流れても この日だけは忘れなく
(後略)
生まれたときは、どの子も天使だった。生まれてきただけで「ありがとう」と言いたくなった。にもかかわらず、その子どもが成長するにつれ、親の期待はどんどんふくらみ、次々と過大な要求をするようになる。たとえ言葉で言わなくても目で語っていることを子どもは気づいている。
今年6月に奈良県で起こった高1生の放火事件を思い出していただきたい。成績が少し下がったことを父親に叱られるので自宅に放火し、その結果、母親と弟妹が死に至った事件である。成績が少し下がったくらいでと思われるかもしれないが、彼にとっては逃げ場がないほど追いつめられていたということであろう。
親の期待と要求でストレスを抱え、いつもイライラしている子どもが多いのではないか。子どもの精神的発達や自立が遅くなる傾向にある現在、先のことを考えない放火のような行動が増えるのではないか。出口の見つからない暗闇でじっと耐えている子どももいるのではないだろうか。
成績や順位よりも、子どもたちが、なにを学んでなにに感動しているかを知っていただきたい。子どもの中にある子どもの世界を認めてほしいと思う。天使たちに「ありがとう」とつぶやいてから明日も学校へ送り出しませんか。
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20 August
■「便利」神話
「先生、この計算めんどいから電卓貸して」。「めんどうくさい」というのが面倒なのだろう。子どもたちの多くが、言葉を省略して「めんどい」と言う。ところで、計算力が身に付いていない子どもは、少し難しい計算になると電卓を使いたくなるようだ。とにかく何でも楽にしたいというのが、現代の子どもたちである。1950年、60年代に育った世代は、科学や技術が進歩・発展すると生活がますます便利になり、快適な環境の中で幸福な人生が続くとどこかで信じていたのではないだろうか。実際、洗濯機や電子レンジなど多くの家庭電化製品の発明によって、あるいは自家用車を始めとする交通・輸送システムの発達、パソコン・インターネットの普及などで、わたしたちの生活は便利で快適なものになった。
しかし、今日の便利が、たちまち明日の不便になる現実を何度か経験すると、わたしたちが信じてきたものは、危ない神話に過ぎなかったのではないかという疑義が生まれる。携帯電話を例に考えてみよう。
初めて携帯電話を使ったとき、屋外でも自由に電話ができる便利さを誰でも実感したと思う。だが、それが当たり前になってしまうと、携帯電話を忘れてしまったときの不便さに腹が立ったり、不安になってしまう。ついこの間までは、屋外で電話できないのが当たり前だったのにである。
利便性の追求は、不便を負の価値として切り捨ててしまう。つまり、便利の押しつけである。CDプレーヤーの開発で、レコードプレーヤーは消えてしまった。(実は根強い人気があって今でも使っているオーディオファンも多い。わたしもそのひとり。また、外国では日本以上に現役である)DVDレコーダーの普及で、もうすぐビデオがなくなるだろう。新幹線の発達で在来線は廃止され、旅が旅行に変わってしまった、と言ってもいいのではないか。
切り捨ててしまった「もの」やシステムの中に、大事な要素があったことを忘れてはならない。新製品で実現できなかった機能もその一つだが、消えていった「もの」やシステムの中にあった精神的なもの、「もの」づくりでいえば、職人の魂やこだわりである。最近の日本製品をよく見ていただきたい。こだわりは、いかにコストを下げるかだけで、「もの」としての風合いや質感などはどんどんなおざりにされている。
その昔、映画を観るときは心構えをして映画館に行ったものだ。レコードに針を落とすまでの一連の「儀式」が集中力を高めたと思う。携帯電話が普及する前は、友達の家に電話をするとその家族が出るから、挨拶をして呼び出してもらったものだ。しかし、今は携帯電話で、どんな時間でも直接、本人と話すことができる。便利になったかもしれないが、なにか大事なものを失っていないか。
また、そこまで便利にすることにどんな意味があるのだろうかと思わせることも多い。最近は携帯電話でもテレビが見られるし、通勤電車の中にもテレビがあるそうだ。また、携帯電話がクレジットカードの代わりをするらしい。机に置くだけで充電できる携帯電話を開発中、というNTTドコモのコマーシャルを見た。
便利で快適な生活が、人間の幸福に繋がっているとは限らないことを知るべきである。大事ななにかを失い、不安を感じ、人と人の関係を歪めることもある。ただの商業主義、売るための技術開発ということも多い。最も重要なことは、それが人間の発達や幸福に資するかどうかではないだろうか。便利神話の呪縛から自由になりたい。
誤解のないように述べておきたい。不便こそが人間には大事であって、明治や江戸時代の生活様式に戻れと言っているわけではない。仕事をするおとなにとっては効率性が要求されるので、利便性は重要であり、生産力の向上には欠かせない要素であろう。また、便利なことが人間の幸福に繋がっている面も認めないわけにはいかない。
つまり、便利さには2つの側面があり、それが人間の発達や幸福に繋がっているかを常に吟味する必要があるということだ。とりわけ、子どもの成長にとってどのような影響があるかを慎重に考えるべきだろう。
そこで、最後に子育ての面から考えてみたい。
先述したように、便利は昨日まで当たり前だったことを不便に変えてしまうわけだから、子どもには安易に便利なこと、便利な方法を与えない方がよい。なんでもめんどうがって、ちょっとした困難でも回避する傾向を生み出す。だから、わたしはパソコンでの教育には賛成しない。多くの場合、パソコン以外でできることを便利にしているだけだからだ。パソコンでしかできないような機能を活用するのであればいいのだが……。
また、利便性の追求によって切り捨てられる不便さの中にあった大事な要素(ある種の精神性と言ってもいいかもしれない)を味合わせたい。便利な「もの」やシステムが次々に現れても、その本質を見抜いて、すぐに飛びつかないような子どもにしたい。
おとなが、不便だな、大変だなと思っても、便利さに慣れていない子どもは案外、平気なのである。子どもに便利なことを教えるのは、便利に慣れて楽をしているおとなである。成長期にある子どもは、おとなと違うということを認識してしっかり子育てをしたいものである。反省を込めてペンをおこう。
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20 July
■朝食を学校で?
朝食を食べない子どもが増えているそうだ。お箸を使えないからスプーンでしか食事をしない子。激辛のポテトチップスばかりおやつに食べていたので味覚が麻痺してしまった子ども。また、夜になると元気になってなかなか寝ない子も増えている。子どもの生活様式に大きな変化が生じているのだろうか。
朝食を食べない子どものために、給食で朝ごはんを出す学校があるらしい。時折出して、朝食の重要性を理解させようと工夫している学校もあるそうだ。まだまだ実態がつかめないが、政府は「食育推進基本計画」で、朝食をとらない子どもをなくすという目標を掲げた。
2006年6月19日、朝日新聞の「きょうの論点」は、「どうする子どもの朝ごはん」と題して子どもの朝食について取り上げた。香川靖雄氏(女子栄養大副学長)と鈴木雅子氏(福山平成大客員教授・病態栄養学)のそれぞれの意見をまずまとめてみよう。
「学校給食こそ最後の砦」(香川靖雄氏の意見)
1)子どもの栄養状態は危機的である。
2)朝食を家庭で食べていてもバランスが取れていない。
3)家庭や親が本来の役割を果たせないのであれば、朝食も学校給食で提供すべきだ。
4)朝食を取ることで、成績が上がったり、社会性が身に付いたりすることもある。
「家庭での食習慣が大切」(鈴木雅子氏の意見)
1)朝食を食べない子どもがかなりいることは由々しき問題である。
2)だが、その対策として、おにぎり、乳製品といった単品の軽食を朝食代わりに学校で与えることには反対。
3)安易に学校で単品の給食を与えたら、ちゃんと朝食をとっている家庭にまで影響を与えかねない。安易な対策は禁物である。
4)重要なのは、バランスのとれた朝食を家庭で食べるよう促すことである。また、朝食の重要性を理解しないおとなには、時間をかけて、科学的な知見や伝統的な食生活の知恵について説明する根気と努力が必要。教育現場はその努力を放棄してはいけない。
鈴木氏の意見は正論でそのとおりだが、家庭の機能が壊れつつある現在において、それが教育現場の努力だけで可能かどうか疑わしい。だからといって、学校給食でというのも短絡的で確かに安易だろう。どちらの意見を聞いても反論したくなる。いったいどうしたものか。
そもそも、朝食を食べないのはどうしてかという分析がなされたのだろうか。食べない子どもの中には、食べる意志のない子どもと、食べたいのに食べられないという子どもがいる。食べる意志のない子どもの中には、食べると学校で気持ちが悪くなってしまうとか、トイレに行きたくなるので食べない、あるいはダイエットのためという理由をあげる子どもがいる。
これは、朝食だけの問題ではなく、1日全体の生活リズムや心身の状態とも深く関わっていることで、根本的な原因を突き止めないと解決しない。食べると気持ち悪くなる生活そのものに目を向けないといけないだろう。
また、食べられない子どもにもいろいろな理由がある。多くの子どもは、1分でも多く寝ていたいので朝食を取る時間がないのではないか。夜遅くまで勉強している受験生、宿題がなかなか終わらない小学生、遅くまで塾で学習している生徒、そして、ゲームやテレビで夜更かしをしてしまった子ども。現在の子どもは寝不足なのだ。
そして、親が作ってくれないから食べられないという場合もある。親が作れないのなら自分で作ってもいいのだが、それなら寝ていたいというのが本音かもしれない。ところで、親が作れないのも、いろいろな理由があろう。作る意志のない親もいれば、夜遅い仕事で作れない親もいる。夕方からの2つ目のパートで、あるいは毎日の労働強化で、親はくたくたになっている。
そういう家庭や社会の状況分析を抜きにして、朝食を食べない子どもがいるから学校給食で、というのはやはり短絡的ではないか。学校給食となると、給食センターなどのある自治体では、市や町全体で実施されるだろう。また、横並びの好きな日本では、あっというまに全国に広がるかもしれない。栄養は、朝食だけの問題ではないし、食育は栄養だけの問題ではないはずだ。
あなたはどう考えますか。
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